一度は部員不足で消滅したチームをまた復活させる。これはもう15年以上も前の事になります。28歳でコーチになった私は、指導者としては新米で右も左もわかりませんでした。
そして、復活させたばかりのチーム。初めは当然、野球未経験の子たちばかり。そして、おさがりとして残っていたユニフォームもとても古く、道具もほぼ揃わない中でのスタートでした。だんだんお洒落なデザインが増えてきている中で、漢字で「笹山」と二文字大きく書いてあるユニフォームが、今ではとても懐かしいです。
低学年は、ボールより砂をいじる。気が付けば、喧嘩をしていたり、その場からいなくなったり。体の大きな高学年でも、野球なんて全く知らない、キャッチボールもできない。本当に一からスタートの選手たちと、新米コーチ。あの時の私がチームにとって役に立っていたのかと、今になると疑問に思うくらいです。それでも、子供たちと一緒に遊んだり、少しでも野球に興味を持ってもらいたくて作戦をたてたり、あの頃は本当に楽しかった。野球を教えるというより、どうやったら団体行動が出来るか、喧嘩せずに仲良くできるのか。指導者というより、結局はお母さんのようでした(笑)。
そんな笹山ライオンズも、毎週末グランドに集まり一緒に練習を重ねるうちに、少しずつチームらしくなっていきました。当時の監督がとても熱く一生懸命で、監督の「想い」が選手達に届いている、そんな実感もありました。キャッチボール、ノック、走塁練習・・・そんなところまで出来るようになった頃には、私も指導者として成長したいと思うようになりました。野球指導者本を買って読みながら、小学生に「わかるように伝える」という事の難しさと向き合うことになります。
「どうしてこんなこともわからないんだろう」そんな風に思ってはいけないと頭で理解していても、伝わらないと凹んだり悩んだり。一緒にプレーをしたり、目を見て説明したり、怒ってみたり、コーチといえども試行錯誤の当時の私。まだ未熟で、選手とともに指導者として勉強、成長をさせてもらっていた、そんな時期でした。そんな私をあたたかく受け入れてくれていた当時の保護者の方々にも感謝です。
「新しく立ち上がるチーム」だから私も頑張れたし、受け入れてもらえた。
そして、可愛い選手達とあたたかな保護者の方々だったからこそ「女性のコーチ」が誕生することが出来たのだとも思います。